インドカレーを食べながら考えたこと

いつも一人でご飯を食べるときは横にiPhoneなりiPadを置いて、本とか漫画をよみながら食べてしまうのだが、それってなんかもったいないんじゃないかと思い立って、最近はデバイスをポケットの中に入れ、食べることに集中するようにしている。

そうすると気づいたことがあって、人間の頭というものは、何もすることがないと勝手に何かを考え出すものなのだ。

今日もカレーを食べながら、次のようなことを考えていた。
「この店員さんたちはインドから来たんだろうな」
「どうやって日本語学んだんだろうな」
「彼らの子孫は日本でどうなって行くんだろうな」
「100年後とかに『私は2010年代にインドから日本へ渡った一族の末裔です』みたいになるのかな」
「インド人に比べると日本人ってわざわざ海外に出て生きていこうって人ややっぱり少ないよな」
他にも色々考えた気がするけど、忘れた。本当に無意味なこととかをせいぜい10分の間に色々考えたと思う。

なので、人間って暇になると考えるものなんだなと思った。
本当に考えたいときは、実は何もしてはいけないのだと思う。逆説的だけど。

努力に逃げてはいけない

努力できる人が天才というなら、そこら中に天才はいるはずだ。結構みんな頑張ってる。

だけど、実際のところそうじゃない。
自分にも、過去を振り返ってみて、「あの時、俺は努力することを言い訳に、もっと大事なことから逃げていたのではないか」と思う部分がある。

思考停止して、単純作業に打ち込むことは、慣れてしまえばそんなに難しいことではない。

スポーツを例にするとわかりやすいが、例えば野球では「とにかく走り込みをしよう」という伝統のようなものがあって、何をすればいいかわからない時にはとにかくただ走る。無心に走る。「走禅」などと言う都合のいい言葉を考えた人もいて、それが実績のある人だったりするのだけど、それで何も考えずに成果を出せると言うのはやはり間違いだと思う。

全ては因果関係だ。何らかのアクションがあり、その結果が出る。

野球の例で言えば、走ると言うのは単なる手段に過ぎなくて、実際には(ピッチャーであれば)投げることが改善されるような取り組みでなければならない。
そのために何が必要かなんて、その人や季節や体調にもよるし、絶対的な正解などない。

だから、その時その時を大事にしながら、一番効果があることを適切に選ぶ、と言うことこそが一番重要なことだったのだ。

筋力が足りない人ならウエイトトレーニングをするだけでプレーに余裕が出て、結果として技術も向上するだろうし、筋力は十分あるなら、技術的な改善の方が優先されるかもしれない。そう言うことを臨機応変に取捨選択する能力こそが重要であり、「本物の正しい努力」なのだと思う。

努力は必要だが、努力っぽいものに逃避することはあまりにも簡単だ。

「考える」ということもすごく似ている。

考えてるっぽいんだけど、実はぐるぐると同じロジックを回ってるだけだったり、ロジックの肝心なところが抜け落ちててわけわかんなかったりということはよくあるはず。
あと、自分が欲しい結論のためにロジックっぽいものを発明するとか。

そうじゃなく、シンプルに、ただ考えるというのは、思ったより難しい。ともすれば「考えてるっぽいこと」に逃げ出してしまう。どうでもいい本読んでその気になるとかね。

それを確認するために一番簡単なのは、やっぱり白紙に向き合ってみることだと思う。何にもないまっさらな状態で、自分が何を書けるか。それで本当に考えてるかどうかは結構浮き彫りになる。
実際に書かなくても、ちょっと行動を止めてみる。じーっと止まって、ただ自分の頭の中がどうなってるかを観察する。そうすると、まあ本当にわけわかんないことばっかりぐるぐる回ってんなというのがわかる。
シンプルに無駄なことを考えないというのが一番、精神力を必要とするのかもな。

勝海舟のかっこよさ

以下、氷川清話 (角川文庫ソフィア)からの引用。

(外交に関して)こう言う風に応接して、こう言う風に切りぬけようなど、あらかじめ見込みを立てて置くのが世間の風だけれども、これが一番悪いよ。俺などは、何にも考えたり、目論んだりすることはせぬ。ただただ一切の思慮を捨ててしまって妄想や邪念が、霊智を曇らすことのないようにして置くばかりだ。

人はよく方針というが、方針を定めてどうするのだ。およそ天下のことは、あらかじめ測り知ることができないものだ。

いくらのみ取りまなこで天下の大機を見たとて、見えるものではないよ。いくら物事にこせこせして働いても、仕事の成就するものではないよ。功名をなそうという者には、とても功名はできない。きっと戦いに勝とうというものには、なかなか勝ち戦はできない。これらはつまり無理があるからいけないのだ。ぜんじつめれば余裕がないからのことよ。

困苦艱難に際会すると、たれでもここが大切の関門だと思って一所懸命になるけれど、これが一番の毒だ。世間に始終ありがちの困難が、一々頭脳にこたえるようでは、とても大事業はできない。ここはシナ流儀に平気で澄ましこむだけの余裕がなくてはいけない。そう一所懸命になっては、とても根気が続かん。世路の険悪観来たって、坦々なる大道のごとくなる、練磨と余裕とが肝要だ

人間は、難局に当たってビクとも動かぬ度胸がなくては、とても大事を負担することはできない。今のやつらは、ややもすれば、知恵をもって一時のがれに難関を切りぬけようとするけれども、知恵には尽きると気があるから、それはとうてい無益だ

むやみに神経を使って、やたらに世間のことを苦に病み、朝から晩まで頼みもしないことに奔走して、それがために頭がはげ、ひげが白くなって、まだ年も取らないのにもうろくしてしまうというような憂国家とかいう者には、おれなどはとてもなれない。

むやみやたらと計画を練ったり、無駄な努力にあくせくすることを否定し、物事をありのままにみよ、という感じ。かなり特徴的な考え方だと思う。勝海舟自身は、若い頃に武術と禅の修行をかなりやったらしく、その2つが人生で一番身になったと言っている。

「近頃の若いもんは」的な言い回しもかなりあったので、バイアスかかってる部分もあるかもしれないが、安易な「努力」に逃げそうになりがちな人にとってはこういう考え方を知っておくのは良いかも。
西郷隆盛をものすごく高く評価しているのが印象的だった。

2017年に達成することリスト

1. ウエイトトレーニングを1年続け、スクワット120キロ、デッドリフト100キロ、ベンチプレス80キロ、懸垂20回くらいを楽にこなせる水準を目指す
2. ストレッチも毎日20分なるべくこなす。開脚前屈でべたっといける。桑田真澄的な。
3. 結果として130km/hくらい楽に投げられるようになる。なんの意味もないけど。
4. Pickluzはとにかく1年間運営を続ける。自動でできることと、手動でやる部分をうまく組み合わせる
5. 4を1年続ければ、相当な知識がつくし、興味ある人もだいぶん集まってくるんじゃないかという気がする
6. 英語の動画を字幕なしで毎日何かしら観る。もう1年続ければ英語力はかなりの水準になると思う
7. エンタメ(ドラマ・漫画・映画)も広く観たい。世間擦れしがちなので(?)。とりあえずhuluとNetflixは解約禁止(月2000円の投資)

今年のテーマは「形にすること」「継続すること」。ということで、とにかく淡々と楽しみながら、自分の決めたことを続ける。
自分はかなり好奇心や探究心が強いタイプだと思うので、それを100%活かせるようなライフスタイルを作り上げる。

2017年は「形にすること」と「続けること」を大切にしたい

2016年の最も大きな学びの一つが、「結局、何かを形にすることでしか真に学ぶことは難しい」ということだ。文章であれ、プロダクトであれ、行動であれ。

何か新しいことを知ろうとするとき、とりあえずそれについて知ってることを書いてみる。
当然はじめは大したことを言えない。むしろ恥ずかしいくらいスカスカの内容しか書けないが、それを受け入れつつ吐き出してみることでしか、先には進むことは難しい。

なので、いかに自分の言うことが薄っぺらく感じられるとしても、形にする。そこから自分自身で学んでいくしか方法がない。

そうなってしまう理由の一つは、「自分の知識は有限だが、世界は無限である」からだと思う。
自分が学ぶべきフィールドが限定的なものならば、それについて整理できていればいい。しかし、現実には知るべきことが山のようにあるし、新しく知らないこともどんどん出てくる。

その中で最も頼りになるのは、「限られた知識の中から成果を出す」能力であり、それを磨くために必要なのが、「とにかく何かを形にして、そこから学ぶ」サイクルなのだと思う。アウトプットドリブン。

アホなことしかできなければ、無視されたりディスられることにもなろうが、しょうがない。形にしてみて、そこから学び、次に活かすしかない。むしろ、そうならないように努力できるかどうかこそが問われている。幸い、ほとんどの人は他人の失敗をそれほど気にかけない(多くの場合は無視されるだけですむ)。

あとは、とにかく続けること。長く続けられること以外に意味なんてない。それが自分の人生でやりたいことなら、今すぐにやるべきだし、長く続くはずだ。自分で決断し、続けること。続けることでしか変化は起こせないと思う。自分にも、他人にも。価値のあることをやるには、どうしたって時間がかかる。

コンスタントに継続しない限り、何が本当に効果があったのか分かりようがない、というのもある。定点観測。科学実験がそうであるように、前提条件を同じにしないと、何が良くて、何が悪かったのかがわからない。

「形にすること」と「続けること」。この2つを何よりも大切にしたい。

2017年の所信表明に代えて。

昨今のメディア系スタートアップに関する考察

自分がそういう環境にいるだけかもしれないが、近年「なんとかメディア」と呼称することのできるスタートアップの成果が目立つ。

数年前のmeryやiemoのDeNA社による買収やGunosyの上場、今年の「コンプレックスメディア」と類される「ハゲラボ」運営のゴロー社など、挙げればきりがないほど目立つ。

この「目立つ」という評価はかなり主観的なもので、それ以外の分野が成果を出していないわけもないが、俺は目立つと思う。とにかく目立つ。めっちゃ目立つ。

ということで、なぜ目立っているのかを考える。

インターネットサービスの成長に関して、グロースハック的な文脈で「AAARR」という考え方がある。

これはユーザーの行動を5つのステップに分けるシンプルな枠組みで、「Acquisition(ユーザー獲得)」「Activation(利用開始)」「Retention(継続)」「Referral(紹介)」「Revenue(収益の発生)」で左から右になんとかしてユーザーにたどり着いてもらいたいね、という考え方。

例えば、100人ユーザーを獲得したら、本当に利用を開始するのは10人で、そのうち5人が継続して使ってくれて、1人が紹介して次のユーザーを連れてきてくれ、1人が実際にお金を払う、みたいな感じ。

ここで問題になるのが、そもそも最初の「Acquisition(ユーザー獲得)」がなければそのプロダクトがどんなに良くても次のステップに進む数は確実にゼロだという現実だ。

とりあえず来てくれる人さえいれば、彼らの行動を分析することで次ステップに進んでくれる確率を定量的に分析しつつ高めることが可能だ。

しかし逆に言えば、誰も来てくれなければ次に進めようがない。プロダクトの改善をしようにも、そもそも誰もこない。とりあえずPRを打ってちょっと流入があっても、大した数じゃない上に繰り返し検証ができないので改善のしようがない。なんとなくこれがいいんじゃない、みたいな話しかできない。妄想でプロダクトを改善し、効果が上がらず、資金が減っていくという最悪のパターンにはまる。

ちょっと前まではここら辺の事情は違ったんじゃないかと思う。
いい検索エンジンがない時代やいいソーシャルネットワークサービスがない時代にいいサービスを作れば、使ってくれる人は山のように来たと想像する。

しかし、今のようにあらゆるジャンルで洗練されたサービスが増え、猫も杓子も「サービス作りたいです!」とか言ってる時代にあって、ユーザーが自ら進んで流れ込んでくるようなサービスはどんどん作りにくくなっているんじゃないかと思う(昔も簡単ではなかったはずだが、時間が進むにつれてサービスの数は増えるので相対的に競争率は上昇する)。

また、新規ユーザーを取ってくる方法は主に口コミ、自然検索、ネット広告(検索・SNS・メディアなど)などであるが、実は自然検索からの流入の方がサービスにとっての価値が大きい。費用が発生しないからというのはもちろんだが、効果が何日も繰り返し継続すること、そして「もともと興味がある人」しかやってこないのも良いところ。

最悪の場合でも、自分自身がトラフィックを生むことさえできれば、その先にプロダクトとして特別な価値がなくとも、収益化することもできる。

ということで、冒頭の問題「なんで最近メディア系スタートアップが目立つのか」に対する俺の考えは「それだけ最初のステップ(=ユーザ獲得)に対する競争率が高まっているから」ということ。

まずは話し相手を集め、その人たちに最適な機能なりサービスを付け加えていく。

サイバーエージェントがネット業界で珍しかった「営業力」を武器に事業を広げていったように、今後しばらくはメディアとしての「集客力」を武器に事業を垂直展開していく、という流れが一部で続くのではないかと思っている。

情報ビッグバン

最近、国内海外問わずインターネットメディアが乱立しているなあと思う。

この流れはしばらく止まることはないだろう。考えてみれば、インターネットができてからウェブに存在する情報量はずっと増えっぱなしである。

これは宇宙の起源と言われるビッグバンに似ているなあと思った。最初の数秒で一気に大きさが増え、150億年経った現在でも膨らみ続けているという。まだまだインターネット世界は黎明期なのかもしれない。

21世紀は、インターネット上の情報が馬鹿でかくなっていく時代で、限られた良質の情報と大量のゴミのような情報が生み出され続けるのだろう。

その中で人類はどうやって情報を見つけ出すかが課題になり、そのための解決手段が必要になっていく。すでにそうだけど。

情報の質が問われ、事実と情報の区別がなされていく。

これまで、大衆はメディアに翻弄されてきたけど、だんだん少しずつ、世界中で情報の取捨選択が重要だというのが常識になっていくのだろうか?それとも今まで通り、情報を見る目を養えるのは一部の人に限られてしまうのか。

情報が際限なく増えていった結果、利用されない大量の情報はどうなってしまうのだろう。
情報が減少に転じることはあるのだろうか。

VR / ARのような最新技術と、すでに存在する活字の情報は、どうやって交わるのだろう。それとも独立した別の世界ができるのだろうか。

それとも、この仮定はすべて間違いで、実はインターネットはすぐに停滞するのだろうか。

今後やっていくことを4つ

基本的には資本市場、デザイン、エンジニアリング、コミュニケーションの4軸を自分の中で高めていきたい。

  1. 資本市場や歴史について知り、社会について理解するヒントを得る
  2. デザインについて知り、ものやアイデアを構成する力をつける
  3. エンジニアリングを実践し、つくる。
  4. 作ったものを人に見てもらい、フィードバックを得る

1をベースに得る着想を元に、2を使ってアイデアを具体化し、3で実践し、4で反省するというサイクル。

これを人生を通じて続けていけたら楽しそうだ。

ビットコインの何がそんなにすごいのか

よくわからないので、考えてみる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ビットコイン

ビットコインは仮想通貨であり、ブロックチェーンと言われるインターネット上の「分散型公開台帳」に取引が記録されていく。
従来の通貨と違うのは政府や中央銀行のような管理者がないこと。これにより「民主的」な通貨が世界の資本システムを変えるのではと注目されている。

技術的な側面は一旦置いておいて、社会的な側面から見るとビットコインにはどんな可能性があるのだろうか。

ものすごく極端なケースを2つ考えてみた。

第1のケースは、既存のすべての通貨がビットコインで代替され、世界中の通貨が一元化される場合。これが究極だろう。

しかしそのためには前提として、インターネットが世界中で普及し、すべての決済が電子取引によって行われる必要がある。ここまでいくにはかなりの時間がかかりそうだ。100年とか。

第2のケースは、ビットコインによる商取引の規模が既存の通貨の取引規模を超えるレベル。これも1つ目ほどではないが、かなり極端な場合だ。

この実現もかなり難しい。2016年現在、インターネット商取引自体の規模がまだまだ少数派だ。Eコマースの規模が最も大きな中国で$562billion、ついで米国の$349billion。対して中国のGDPは$9.24trillion、米国は$16.77trillion。

つまり、インターネット上の商取引がGDPに占める割合は中国で6%、アメリカで2%程度。
仮にインターネット商取引すべてがビットコインに置き換わったとしても、大した割合ではないし、それすらも難しい。仮に実現しても不便だと思う(生活のメイン通貨が違うので)。

この2つのケースは当分実現しそうにない。もう少し現実的なケースを考えてみる。

それは「ある特定領域でビットコインの使用割合がめっちゃ上がる」ことだ。

例えば、フェイスブックは世界中に10億人のユーザーがいるが、使っているのは世界のごく一部。ただ、一定コミュニティにおける使用割合はかなり高く、そのことが大きな価値を生んでいる。

商取引の手段として考えた場合、ビットコインもネットワーク効果を受けることはまちがいなく、すでに1兆円規模で流通していて有名なビットコインを超える仮想通貨が今後現れることは考えにくい。

そう考えると、近く実現しうる最大の普及状態は特定領域においてビットコインの使用割合が高くなり、そこではビットコインで決済を行うことが優勢になるという感じだと思う。

ふわっとした結論にはなってしまったが、これなら今後10年20年というスパンで実現しそうだ。

P.S.

ふと思ったが、「グローバル決済・送金のための通貨」として普及することがあれば、めちゃめちゃポテンシャルがありそうだ。
世界中に何種類の通貨があるのか知らないが、それを全てサポートするのはシステム的にはかなり大変。

だから、ビットコインの財布を提供するサービスがまずあり、それと連携する形でグローバルに送金するためのサービスがあれば、いつでも簡単にビットコインを介して海外送金することが可能になる。

これはちょっとすごいかもしれない。