ウォーレン・バフェットの人生から読み解く米国経済史

バフェットの人生は、世界恐慌以来の米国経済に強く影響を受けており大変興味深い。彼の人生と共に米国経済がどんな流れをたどってきたのかを追いかけてみる。

結構長くなるので初めにざっくりというと、

1930年 世界恐慌直後のアメリカでバフェットうまれる
1956年 独立して投資パートナーシップを運用し始める
1964年 ケネディ大統領の暗殺で市場は低迷、スキャンダルで破綻寸前のアメリカン・エクスプレスに資産の40%を投資
1967年 アメリカン・エクスプレスの投資が大成功。市場の水準が高くなり、年間10%市場平均を上回るとしていた目標を5%に下げる
1970年 市場がピークになり調子が悪いのでパートナーシップを解散
1974年 市場が低迷し嬉々としてワシントン・ポストなどに投資
1976年 同じく破綻すれすれのGEICOに投資
1986年 また市場はピークを迎えバフェットは不調
1987年 ブラックマンデーで市場暴落、コカ・コーラに13億ドルの投資
1999年 ネットバブルについていけず(?)時代遅れと見なされる
2003年 正しさが証明され、中国株のペトロチャイナに投資
2008年 サブプライム・ショック

つまり、市場の流れとしては
1929年 世界恐慌
1964年 ケネディ暗殺で市場低迷
1970年 市場がピーク
1974年 市場低迷
1986年 市場ピーク
1987年 ブラックマンデー
1999年 ネットバブル
2001年 ネットバブル崩壊
2007年 不動産バブル
2008年 サブプライムショック

というのが大きな流れのようだ。

以下はもう少し詳細。

バフェットは世界恐慌による株価暴落から復活しきれてない1930年のアメリカで生を受けた。

9歳の頃には『世界年鑑』なる本を読み込み、世界の都市の人口を全て記録していたという。

11歳で『1000ドル儲ける1000の方法』という本を読み、35歳までにミリオネアになることを決意。

初めて株式投資をしたのは12歳のとき、姉のドリスとともに適当に株を買った。

幼少時は切手や王冠などを収集していたが、このころから「現金の収集」に目覚め、新聞配達などの仕事を始める。

15歳で貯金は2000ドル(現在だと200万円程度)。農地を買って小作人を雇ったりする。

17歳の頃には友人と中古のピンボールマシンを25ドルで買って理髪店に置くというビジネスを考え、複数の理髪店に7、8台を置くまでに拡大する。高校卒業の時点で貯金は5000ドル(現在だと500万円相当)。「株式ブローカー志望」と卒業アルバムに書く。

その時点ですぐにでも働きたかったが、親に説得されて嫌々ペンシルバニア大ウォートン校に行くも中退。地元のネブラスカ大学に入り直す。
そちらはすぐに修了し、20歳でコロンビア大学の大学院に入学(ハーバード・ビジネススクールも受けるが、落ちた)。

コロンビア大学に入った理由は著名な『証券分析』や『賢明なる投資家』を書いたベンジャミン・グレアムが教えていたから。
大学院では圧倒的な成績を残しつつ、図書館で1929年から新聞を全部読むなどしていた。この間もお金を増やし続け、貯金は2万ドル近く。現在の2000万円相当か。

卒業後、バフェットはすぐにでもグレアムの下で働きたかったが、当時ユダヤ系への差別が厳しく、グレアムが反対運動としてユダヤ人以外採用しない方針をとっていたため見送られた。
しょうがないので地元に帰り、オマハ大学の夜間コースで投資について教えたり、父親とバフェット&バフェットという投資パートナーシップを立ち上げる。

しかし卒業から2年後、24歳になる頃にグレアムから連絡があり、グレアム・ニューマン社で働くことに。
働き始めて2年後にはグレアムが引退を決め、バフェットはグレアムのいない会社で働いてもしょうがないので辞める。この時の資産は17万4000ドル。

バフェットはこの時の資産で35歳までにミリオネアにある自信があったので、引退を決意し、オマハに一軒家を借りる。
実際には資産の増加を加速するために身内中心に投資パートナーシップ「バフェット・アソシエーツ」を作り、自身は100ドルだけ出資した。

その後、他人からも運用を頼まれることになり「バフェット・ファンド」を作る。このころ、総額で50万ドル以上を運用していたことになる。現在だと5億円程度だろうか。26歳

29歳でのちの投資パートナーとなるチャーリー・マンガーと出会う。

32歳になるころには預かり資産は400万ドル近くなり、11のパートナーシップ、100人を超える出資者にまで膨れ上がった。それまでのパートナーシップを解散し、「バフェット・パートナーシップ」という1社にまとめた。この時点でバフェットは100万ドルの資産を達成している。また、このころからバークシャー・ハサウェイの株を買い始めた。

34歳、ケネディの暗殺により世間が沈む中、アメリカン・エキスプレスのスキャンダル(大豆油と称して海水を入れた樽を売る)に注目し、資産の40%にも及ぶ額をアメリカン・エキスプレス株に投じる。

35歳でバークシャー・ハサウェイの取締役会長に選ばれる。パートナーシップの資産は3700万ドルに。

37歳、バークシャーの繊維事業が厳しいので保険会社を買収し始める。パートナーシップは好調だったが、市場が高い水準に達していたので目標をその後「年間10%から5%に下げる」ことを宣言。

40歳になり、パートナーへの手紙で「私は今の相場には合ってないし、自分には理解できないゲームをプレイしようとして、これまでの立派な成績を損ねたくはありません。英雄としてやめたいのです」と述べ、バフェット・パートナーシップを解散する。

43歳、社会的に大きな影響力を持つメディア事業に関心を持ち、ワシントン・ポストの株を5%以上取得。
経営者のキャサリン・グラハムとの信頼関係を築いていき、44歳で取締役に。

このころ(1974年)、相場は低迷し、「ハーレムでセックスをしすぎた男性のよう。私の記憶する限り、ベン・グレアムの『シケモク』価格でフィル・フィッシャーの『成長』株を買えるのはこれが初めて」とフォーブズのインタビューで答えている。

46歳のころ、経営不振とトラブルが重なって2ドルまで株価が落ちたGEICOに400万ドル投資。

55歳、バークシャーの繊維事業を閉鎖。アジート・ジャインを採用し、保険事業を中心に据える。

56歳(1986年)、ソロモン・ブラザーズは社員を40%増やしたりして収益が悪化した。バフェットは普通株への転換価格38ドル、利率9%の優先株を買うことに合意し、ソロモンの取締役会入りする。
57歳(1987年)、ブラックマンデーにダウ平均が508ドルという記録的な値下がり。姉のドリスが破産。ソロモン・ブラザーズは7500万ドルの損失。その年末にバフェットはコカ・コーラの株を買い始める。
58歳(1988年)、コカ・コーラへの投資は12億ドル、同社の株主比率として6%に達する。

61歳(1991年)、ソロモンが国債入札のルール違反を犯していたことが発覚する。バフェットは暫定的な会長に就任。事態収束に奔走する。

このころ、ワシントン・ポストのキャサリンがバフェットをビル・ゲイツに紹介し、めっちゃ仲良くなる。

64歳(1994年)、バークシャーと連動するように投資された投資信託を駆逐するため、B株の販売を開始。

67歳(1997年)、再保険会社ゼネラル・リーを220億ドル規模で買収。10年前に投資したコカ・コーラの株は14倍になり130億ドルに増えた。

69歳(1999年)、コカ・コーラによる利益がピークの3分の1まで落ち込み、ゼネラル・リーが詐欺の被害で2億7500万ドルを失う。時代はITバブルでヤフーの時価総額が1150億ドルに達し、バフェットは時代遅れだと見なされていた。

73歳(2003年)、中国経済が急成長しているのを見てペトロチャイナに投資する。

77歳(2007年)、問題児だったゼネラル・リーがバークシャーの保険部門で最も成功した会社に。ダウ平均は史上最高の1万4164ドルに達した。