社会の多様性の最大値

前回のエントリでは「社会の多様性は時代が進むにつれて増大する」と書いた。このこと自体は物理学のエントロピーの法則とも共通していてよく言われることだ。

今回の疑問は社会の多様性の上限はどこにあるのか?という問いだ。

社会の多様性は「文化的多様性 × 個人的嗜好の多様性」で決まると言えると思う。要するに環境の多様性と個体の多様性によって決まるという考え方だ。

人間の総人口は数十億人だが、言えるのは「すでに十分な数が存在する」ということだ。いわゆる「大数の法則」がとっくに満たされていて、例えばこれが200億人に増えても出現しうる多様性は変わらないだろう。人口増加によって文化的多様性と個人的特性がもっと多様になるとは考えにくいからだ。

つまり、現存する社会の実現しうる多様性の最大値が、人間社会の多様性の最大値と言っていい。そして、前回述べたように社会はその方向に少しずつ進んでいっているわけだ。

ただ、現在でも世界には無限とも言える文化的な多様さがあるし、同じ文化圏内でも人間は多種多様で、十分に予測不可能だと言える。

 

社会の行く末

前回のエントリで、「社会とは多様な人間によって形成される文化的な集まり」というようなことを書いた。しかし一方で、異なる社会同士が盛んに交流するようになったのはそれほど昔のことではない。

誰もが飛行機に乗れるようになるまでは、一定以上離れた国と行き来する手段は船だけだった。当然、他の社会に触れられる人間はものすごく限られていたはずだ。主に移動手段と情報技術の発達によって、社会の境界はものすごい勢いで曖昧になってきている。

そうすると社会はより多様さを増していくのだろうか?というのが今回の問いである。異なる社会の間で交流がなければ、ある意味、その構成要員の多様性の上限は保証されている。個性的な10人の日本人と全員出身国の異なる10人では、後者の方が圧倒的に文化的に多様であると言える。

さらに、文化的・民族的な多様性だけではなく、個々人に帰属する多様性というものもある。外向的・内向的とか単にこのスポーツ・音楽が好きということに至るまで、同じ文化でも驚くほどの多様性があるものだ。そして、これらの多様性はインターネットによって加速する方向に進んでいると思う。

普段触れないだけで、ネット上では自分が理解できない嗜好を持った人が無限に存在し、それぞれの社会を作っているはずだ。

こういった性質の「社会」はネット以前ではなかなか難しいことだったろうと思う。特に閉鎖的な社会になるほど、仲間同士の圧力(ピアプレッシャーとかいうやつ)によってやりたいことをするのは難しかったんじゃないか。

つまり何が言いたいかというと、インターネットのない社会よりも、インターネットの浸透した社会の方がより多様性が高いのではないかということだ。そして、それが正しいとすれば、今後ますますインターネットが浸透するにつれて、社会全体の多様性そのものがどんどん増していくのではないか、ということだ。

具体的に言えば、200年前、日本に住んでいるのは99%くらい日本人だっただろうけど、日本にルーツを持たない人の割合は今は増えただろうし、100年後ははるかに増えているのではないか。その頃にはインターネットを使う世代がほとんどになり、単純に趣味嗜好という意味での多様性は高まっているのではないか。

今回の結論は「社会は多様な構成要員によって成り立つが、その多様性は今後、世界のあらゆる場所でさらに高まっていくはず」ということにしておく。

社会とは何か

社会について考えてみたい。

突然ざっくりとした始まりであるが、社会の成り立ちや仕組み、今後の成り行きなどについて自分なりの視点を持っておきたいという思いがある。

社会とはなんだろうか。世界全体を人間社会として捉えることもあれば、日本社会、地域社会というふうに区切ることもできる。テレビ業界、IT業界などと微妙に似ているが、社会はもっと非画一的で、多様な人がごちゃまぜになって全体を形成しているものという感じがする。

世の中にはいろいろな人が存在する。世の中を動かす政治家もいれば、実業家、スポーツ選手やアーティスト、大工やホームレス、犯罪者に至るまで、すべての人間が社会の構成員である。つまり、社会とは「多種多様な人間によって形成される人間の集まりと、それによって形成されるもの」と言えるかもしれない。

社会に属する人間は多様であるがゆえに、いろいろな方法で区切ることができる。前に挙げたように、日本人全体が属する日本社会、アメリカ市民社会などのように国家で区切ることもできれば、移民が多い国は移民社会と形容されることもある。

社会という言葉は業界という言葉と似ているようで異なっている。IT業界に携わっている人間をIT社会とは言わないし、不動産社会、金融社会とも言わない。そこに直接携わる人間以外も巻き込むのが社会であるとも言える。

例えばフランスは移民社会だ、と言った場合、移民それ自体も含まれるし、移民の子孫や移民とは全く関係のない生まれのフランス人も「移民社会」の構成員である。

村社会というとすごく画一的で、排他的な感じがするが、構成員自体は多様でありうる。(場合によって排除されたりいじめられたり、ということはあるかもしれないが。)

社会とは、その構成要素が多様で、そのままでは容易に理解できないものであるということを今回の結論にしておきたい。