読む価値のある文章とは

ネット上で情報をあさっていると、一つの記事をじっくりと読もうとすることは少なくて、飛ぶように断片を拾うようにして行って、面白いかどうかを判断していることに気づく。
たまに面白い文章に出会うと、引き込まれ、一文一文を丁寧に読んでしまうこともないことはないが、めったにあることではない。
 そこには2つの要素があると思う。「読む負荷の低さ」と「内容の必要度の高さ」だ。
それほど面白くない、読む価値もない文章でも、書いている内容が平易であれば、じっくりと追って読むことは難しくない。普段人と話していて、そんなに気をつかわなくても全ての単語が聞き取れるのと同じだ。
一方で、面白くないし役にも立たない文章なのに、やたら長かったりすると、一気に「読み飛ばしモード」に突入する。それでも多くの人に注目されてたり、誰かが引用してたりして目を通そうとするのだが、やはりこういう場合は頭に残らない。
逆に、読むための精神的なコストが高くても、内容の必要度の高さが保障されていれば、じっくり時間をかけて読もうとする。例えば、仕事の重要なメールの書き方が支離滅裂でも、それが仕事である以上はきちんと読もうとするだろう。小説が好きな人であれば、好きな作家の文章が時に冗長であっても頑張って読もうとするはずだ。
重要なことは、誰もが限られた量の文章しか読むことができないという点だ。インターネット上には数多くの面白いブログやメディアがあり、仕事の中で入ってくる情報も膨大だ。SNSでも百人を超える人たちが毎日のように情報を投稿している。
だから、もし知り合いやチェックしているメディアが全員、夏目漱石レベルに面白い文筆家であったとしたら、芥川賞レベルの面白い友人が書いた文章ですら読むに値しない可能性は十分あるわけだ(仮に漱石の方が面白いとすれば)。
つまり、「読むに値する文章かどうか」は文章それ自体の提供する価値だけではなく、読み手の状態にも影響される。
そして、読み手である我々の視点で考えると、「いかに読む対象を選択するか」というのは重要なことなんじゃないかという気がする。
例えば、自分にとって学びが多い文章というのは、ほぼ確実に読む精神的コストも高いはずだ。その分読むのに時間を取られるはず。仮に読み手が学ぶことを人生の重要課題の一つに置いているのであれば、そう言った文章を読むことにできるだけ時間と労力を割いたほうがいいに決まっている。(読むのが簡単な文章であっても、そこから何かを得ようと思えば、じっくり時間をかけて読む必要があるだろう)
 そして、その際に重要なことは、「自分にとって大切なことはなんなのか」ということを明確に知っていること、すなわち「この文章を読むことで自分は何が得られるのか」を明確に意識することだ。
それがなければ、無限に存在する面白い文章を読むことに時間を取られ、自分自身には何も残ることなく終わってしまうだろう。