社会の行く末

前回のエントリで、「社会とは多様な人間によって形成される文化的な集まり」というようなことを書いた。しかし一方で、異なる社会同士が盛んに交流するようになったのはそれほど昔のことではない。

誰もが飛行機に乗れるようになるまでは、一定以上離れた国と行き来する手段は船だけだった。当然、他の社会に触れられる人間はものすごく限られていたはずだ。主に移動手段と情報技術の発達によって、社会の境界はものすごい勢いで曖昧になってきている。

そうすると社会はより多様さを増していくのだろうか?というのが今回の問いである。異なる社会の間で交流がなければ、ある意味、その構成要員の多様性の上限は保証されている。個性的な10人の日本人と全員出身国の異なる10人では、後者の方が圧倒的に文化的に多様であると言える。

さらに、文化的・民族的な多様性だけではなく、個々人に帰属する多様性というものもある。外向的・内向的とか単にこのスポーツ・音楽が好きということに至るまで、同じ文化でも驚くほどの多様性があるものだ。そして、これらの多様性はインターネットによって加速する方向に進んでいると思う。

普段触れないだけで、ネット上では自分が理解できない嗜好を持った人が無限に存在し、それぞれの社会を作っているはずだ。

こういった性質の「社会」はネット以前ではなかなか難しいことだったろうと思う。特に閉鎖的な社会になるほど、仲間同士の圧力(ピアプレッシャーとかいうやつ)によってやりたいことをするのは難しかったんじゃないか。

つまり何が言いたいかというと、インターネットのない社会よりも、インターネットの浸透した社会の方がより多様性が高いのではないかということだ。そして、それが正しいとすれば、今後ますますインターネットが浸透するにつれて、社会全体の多様性そのものがどんどん増していくのではないか、ということだ。

具体的に言えば、200年前、日本に住んでいるのは99%くらい日本人だっただろうけど、日本にルーツを持たない人の割合は今は増えただろうし、100年後ははるかに増えているのではないか。その頃にはインターネットを使う世代がほとんどになり、単純に趣味嗜好という意味での多様性は高まっているのではないか。

今回の結論は「社会は多様な構成要員によって成り立つが、その多様性は今後、世界のあらゆる場所でさらに高まっていくはず」ということにしておく。